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講演会「竜とゾウのはなし」

このイベントは終了しました。
講演会「竜とゾウのはなし」のイメージ
日時
3月17日㈰ 14時00分~15時30分
講師
京都大学名誉教授 亀井 節夫 先生
場所
当館 講堂
対象
一般
演題
「竜とゾウのはなし」
このイベントは終了しました。
Photograph of Speaker
亀井 節夫 先生  Dr. KAMEI, Tadao

1925年生まれ。京都大学名誉教授。前徳島県立博物館長。理学博士。

ゾウを専門とする古脊椎動物学の第一人者。日本の古生物学研究進展に多大な貢献をした。

「日本にゾウがいた頃」「日本の長鼻類化石」などの著書編著も多数。

イベントの様子

  • 古来伝わる竜についての考察です

    古来伝わる竜についての考察です

  • 日本にいたゾウはどんなものだったのでしょう

    日本にいたゾウはどんなものだったのでしょう

  • 質疑応答の時の亀井先生です

    質疑応答の時の亀井先生です

  • 会が終わったあとお持ちいただいた模型の前で

    会が終わったあとお持ちいただいた模型の前で

講演要旨

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)と言えば、『モンナ・リザ』のことが頭に浮かびます。彼の手記には『ゾウと竜』というものがあり、竜とゾウとの闘いのことが書かれています。レオナルドの卓越した想像力のことはよく知られていますが、謎の微笑みを浮かべたモンナ・リザの背景の渓谷は地質学的風景と言われ、そこでゾウと竜とは闘っているのかも知れません。西洋の竜(ドラゴン)と東洋の竜とはちがいますが、両方とも想像上の生き物です。また、≪想像≫という言葉は、“まだ、見たことのないゾウのことを想う(韓非子)”ことなので、昔の人にとっては、ゾウも想像上の動物であったのです。

勝山の白山神社の≪上り竜・下り竜≫は有名ですが、竜の姿は身近のいろいろな場所でも見ることができます。神社やお寺の建物で、柱と梁とが交差するところにある彫刻の「木鼻(きばな)」というものに、竜とゾウが一緒に見られることに気がつかれた方もあると思います。縄文時代や弥生時代のような古い時代の土器に描かれた動物の姿には竜やゾウの姿は見られないので、日本では、古墳時代になってから中国から伝えられたものといえます。古墳の壁画や鏡の彫刻にあるその姿は、はじめは中国のものの正確な模写なのですが、写していくうちに次第にその姿は変わってしまいました。昔の日本人にとっては、実際には見たことのない竜もゾウも、ともに想像で描くほかなく、想像で描かれた「鳥獣戯画」のゾウのようにおかしな姿のものもあるのです。

竜やゾウの姿とともに、竜骨とか竜歯といわれるものも中国から日本に伝わって来ていました。今から200年ほど前に、琵琶湖の西岸の堅田丘陵で、畑の開墾中に“竜骨”が発掘されたことがありました。そのころ、竜骨の正体をめぐって論争が展開されていたのですが、平賀源内(1729-79)は、竜骨にはゾウの骨や歯の化石があることに気が付いていたのでした。西欧の実証的な科学の導入によって竜骨の正体、ゾウの化石ということが明らかにされたのは明治になってからですが、それよりも100年も前に、平賀源内は想像力によってそのことを見抜いていたのでした。

竜は恐竜の仲間だと思っている人もいますが、恐竜と竜は別のものです。ディノサウリアという言葉は、1842年に英国の解剖学者リチャード・オーエン(1804-92)が作ったもので、ギリシャ語で“恐ろしく大きな”という“ディノ”と“トカゲ”を意味する“サゥリア”とを組み合わせたものですが、日本では“恐竜”と翻訳され、竜になってしまったのです。展示室のパネルで説明されているように、19世紀のはじめに、恐竜化石を発掘してその実体を明らかにしたのは、メアリー・アニングやウイリアム・バックランド、それにギデオン・マンテルという人たちでしたが、一般の人々の関心を牽いてはいませんでした。恐竜への関心が高まったのは、1851年に第1回の万国博覧会がロンドンで開かれ、その際に、オーエンの指導で最初の恐竜の復元像がつくられてからです。その復元像は、今日、私たちが見ている恐竜の姿とは大変に違ったもので、その後の研究で姿も変わりましたが、恐竜の運動・行動・生態などについてもあきらかにされるようになったのです。それらについてのことは、恐竜博物館の展示で興味をもたれたことでしょうが、その中にある勝山の恐竜の足跡化石には関心をもたれた方が多いと思います。

日本で最初に足跡化石に注目したのは、「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」の宮沢賢治でした。賢治は、花巻農学校の生徒たちと、1922年の夏に北上川の河畔で足跡化石を発見したことを「イギリス海岸」で述べています。また、彼の作品には恐竜の足跡の話がありますが、彼の想像力が日本での恐竜化石の発見につながったということはよく知られています。ずっと後になって、1988年に、滋賀県の野洲川でもゾウやシカなどの足跡の化石が見つかり、日本各地で次々と足跡化石が報告されるようになりましたが、三重県大山田村の服部川の河原でゾウ(シンシュウゾウ)の足跡の上にワニの足跡が重なっているのが発見されました。現在、ワニの化石は日本の各地から知られ、勝山市の北谷でも見つかっているのですが、1964年に大阪府の豊中市で全骨格が発掘されるまでは、日本にワニがいたとは誰も想像していませんでした。マチカネワニと名付けられたこのワニの化石は、最近では大分県の宇佐郡の安心院(あじむ)でも、シンシュウゾウの化石骨と共に発掘されています。マチカネワニを研究している青木良輔さんによると、このマチカネワニの仲間は中国で最近まで生きていたということで、中国で竜のモデルになったのは、実は、このワニであるということです。そうなると、服部川の足跡化石は、まさに“竜とゾウ”の足跡が重なっていたということになるのではないでしょうか!

これまでお話ししてきたように、竜とゾウとは大変に関係が深いと言えます。日本列島では、10種類以上ものゾウの化石が知られていますが、地球上にゾウの仲間が現れたのは4000万年も前で、2500万年前のころから日本列島では住み着き、アジア大陸にいたゾウたちと共通するものも少なくありません。また、旧石器時代の末期(3~4万年前)までは、日本列島で人類と共存していたことが長野県の野尻湖の発掘で知られていますが、2万年前の氷河時代の最も寒い時期に、日本列島からは姿を消してしまったのです。再び、日本で生きたゾウの姿が見られたのは、はるか後の15世紀になってからで、1408年6月に日本の国王(足利将軍義持)への貢物として、南蛮船が若狭の小浜にもたらしたのが最初とされています。小浜の内外海小学校には、そのことを記念してかわいい子ゾウの石像がつくられているとのことです。また、ゾウの足跡や骨の化石も越廼村で見つかっていて、安野敏勝先生たちによって調査・研究が進められ、日本列島で化石ゾウとして一番古いとされているゴンフォテリウムあるいはステゴロホドンというものの仲間ではないかとされています。

このように、福井県とゾウの関係は、小浜のゾウ、越廼村のゾウ化石のように、いろいろと縁が深いと言えるでしょう。それとともに、貴重な恐竜化石が発掘されており、恐竜博物館がつくられているように、レオナルド・ダ・ヴィンチが想像した「ゾウと竜」のような世界が福井県にもあるということになります。ここでは、「ゾウと竜」に関心があったレオナルド・ダ・ヴィンチ、平賀源内、宮沢賢治の3人を取り上げ、彼らの想像力をたどってみましたが、彼らの想像力によって、歴史の歯車は進められ、自然の実態があきらかにされてきたということは心に刻んでおきたいと思います。


福井県立恐竜博物館
所在地:
〒911-8601 
福井県勝山市村岡町寺尾51-11
かつやま恐竜の森内
TEL:0779-88-0001(代表)
TEL:0779-88-0892(団体受付)

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